奈良の大仏の戦国時代、明智光秀と島左近との接点?

投稿日:2018年10月16日 更新日:




明智光秀と島左近が奈良の大仏とすれ違っていた事実、想像だけでも歴史ファンの血が疼く。
伝説たちの遭遇、ただし決してキレイな状況で対峙したわけではない。
戦国時代、織田信長が桶狭間の戦いで勝利を収めた7年後の1567年のこと。

松永・三好の争い、俗称・東大寺大仏殿の戦い(許されないネーミングだ!)の兵火で、
東大寺大仏殿に加えて、奈良の大仏の仏頭が焼失している。
信長に仕官する前の浪人時代に明智光秀が東大寺を訪れていたかは不明だが、
近畿一帯を攻略する全権を任された近畿管領を務めた役柄、
明智光秀は大仏殿がなく野ざらしになった焼失後の奈良の大仏を見たはず。

奈良の大仏

近畿一帯を攻略する全権を任された近畿管領を務めた役柄、彼は京の文化に通じた文化人の顔もある。
750年もの間、大和の寺社が守り続けてきた伝統を戦火で灰塵にしてしまった時代。
奈良の大仏の大きさの意味ですら、醜い利権争奪戦の前には価値を無くす。
だから明智光秀と奈良の大仏の大きさが交差した瞬間に美しい場面がない。
雨ざらしになり、仏頭を失った奈良の大仏を見上げて、明智光秀は感銘よりは無常を想ったことだろう。
平和を願い奈良の大仏を造立した聖武天皇の理想が、人災によって潰えた形。
明智光秀もまた、東大寺大仏殿の戦いの15年後には、戦によって命を落としている。

平和で幸せな現代人が見る奈良の大仏は、派手と明るさだけに満ちているようにも思える。
実体は、そんな歴史のページを幾つも経ている奈良の大仏だ、清濁を併せ持っている。
もうひとつのイメージを想い浮かべよう。
戦国時代、大和国の武将たちが東大寺・奈良の大仏の前で物思いにふける絵。
出陣の前、大きな決断の分かれ道に、奈良の大仏に助言を求め、ついつい訪れてしまうとか。

大和の有名な武将とは? 島左近、その御仁しかあるまい。
筒井順慶が大和国統一をした過程で、その右腕として戦術を請け負った希代の猛将だ。
島左近と奈良の大仏の遭遇、これも考えるだけでも歴史ロマンでウズウズしてくる。

奈良の大仏

しかしそんな空想は現実のものではない。
東大寺大仏殿での戦火は島左近27歳のとき、それから奈良の大仏は焼失で仏頭がない
大和国で生まれ育った者にとっては重い存在、奈良の大仏。
その大きさに包まれ、島左近は育ってきたはずなのに。
戦場へ赴く前夜、東大寺大仏殿に島左近が歩いてくる。
共も連れずただ一人、半分失った奈良の大仏の姿を見上げながら一人思いに耽る。

そんなシーンを想うたび、涙が出るような美しさを感じ、奈良の大仏の大きさを知る。
夢幻だったようだ、そんな島左近と奈良の大仏の共演は。
奈良の大仏の頭部や、大仏殿そのものが焼け落ちてしまった後、島左近は何を思ったのか。
これも大きいお話、奈良の大仏の大きさを痛感するような場面ではなかろうか

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